
岡野金右衛門とお艶の恋
小春屋の手代

元禄十五年、冬。
本所相生町。
吉良上野介の屋敷の裏門、そのすぐ筋向こうに一軒の酒屋があった。
店の名は小春屋。
店主は清兵衛と名乗る老人だが、その正体は赤穂浪士の重鎮・吉田忠左衛門。
番頭には神崎与五郎。
そして手代として、一人の若者が働いていた。
その男の名は、岡野金右衛門包秀(かねひで)。

色白で鼻筋の通ったその顔立ちは、酒屋の前掛けよりも、役者の衣装が似合うほどの美男、今で言うイケメンであった。
彼らの目的はただ一つ。
目と鼻の先にある、吉良邸の動向を探り、討ち入りの好機を見極めることであった。
だが吉良邸は堅固な要塞である。
内部の構造を知らねば、討ち入りは失敗に終わる。
そのためにどうしても、内部の絵図面が必要だった。
お艶

そんなある日、小春屋に一人の客が現れた。
吉良邸に住み込みで働く女中、お艶であった。
お艶は、お世辞にも器量良しな娘とは言えなかった。
顔は少しあばたがあり、着物も地味である。
誰の目にも留まらない存在だった。
だがそんな彼女に、金右衛門は特別優しく、丁寧に対応した
「毎度ありがとうございます。重いでしょう、お屋敷の中までお持ちしますよ」

金右衛門の狙いは、吉良の屋敷の中の様子を探るためだった。
しかしこれまで、男性から優しくされたことなどなかったお艶は、そんな金右衛門に舞い上がった。
それからというもの彼女の視線が、金右衛門に注がれていることは、誰の目にも明らかだった。
番頭の神崎与五郎はそれを見逃さなかった。
神崎は金右衛門に言った。
「金右衛門、あのお艶という娘……吉良邸の普請を請け負った大工の棟梁・平兵衛の娘だそうだ。
あの娘と恋仲になり、父親の持つ吉良邸の絵図面を手に入れるのだ」

金右衛門は言葉を詰まらせた。
武士として、うら若き女子を騙し、その恋心を利用するなど卑怯千番。
「私にはそのような下衆な真似はできませぬ」
「金右衛門!ここで私情を挟んではならぬ。これは我らの大義のためであるぞ」
神崎の言葉に金右衛門は頷くしかなかった。
偽り

翌日から、金右衛門の「嘘の恋」が始まった。
お艶が来るたび、甘い言葉をかけ、時には手を取り、好意があるふりをした。
お艶は舞い上がった。
自分のような器量の悪い女を、こんな美男が好いてくれるはずがない。
そう思いつつも、自分に対して金右衛門は、誠実で優しかった。
だが、それは恋ではなく、別の目的があったことを、お艶は知る由もなかった。

ほどなく二人は恋仲になった。
そして金右衛門は、ついにお艶に切り出した。
「お艶、実は……俺には夢があるんだ。俺は本当は大工になりたいんだ。
日本一の大工になって、お前を幸せにしたい。
ついては……お前の父上が書いた、吉良様のお屋敷の図面を見せてもらえないだろうか。
それを見て、大工の勉強をしたいんだ」
それは、あまりに苦しい理由付だった。
だが、お艶は金右衛門の言葉を信じた。
「わかったわ。金右衛門様の夢のためなら、私、お父っつぁんに頼んでみる」
絵図面

お艶は実家に戻り、父の平兵衛に頼み込んだ。
「お父っつぁん、お願いがあるの。私の好きな人が大工の勉強をしたいって……
そのために吉良様のお屋敷の図面が見たいって言うの」
平兵衛は、娘の顔をじっと見た。
自分が建てたとはいえ、人様の屋敷の絵図面を他人に見せることは大工の世界の掟に反する。
だが娘が今までに、これほど明るい顔を見せたことがあっただろうか。
自分に似て器量の良くない娘が、男に恋をして輝いている。
相手は酒屋の手代。
それがなぜ大名屋敷の、しかもわざわざ吉良邸の図面を欲しがるのか。
平兵衛は江戸で囁かれている噂を思い出した。
赤穂の浪人たちが、吉良様の首を狙っているという噂を。
「お艶、その男は、もしや赤穂の……」
そう言いかけて、平兵衛は口をつぐんだ。
もしここで「駄目だ」と言えば、娘の恋は終わる。
娘の笑顔も消える。
平兵衛は大工としての誇りと、父親としての情の間で揺れ動いた。
そして奥から一巻の図面を持ってきた。

「お艶、持っていけ」
「お父っつぁん! ありがとう!」
「ただし、このことは誰にも言うんじゃねえぞ」
平兵衛は全てを察していた。
この図面が赤穂の浪人に渡れば、吉良邸は打ちいられるだろう。
そしてその男は生きて帰ってこないかもしれない。
それでも娘が愛した男の役に立つのならと、図面を差し出したのである。
懺悔

お艶から図面を受け取った金右衛門は震えた。
そして心の中で懺悔した。
(俺は……なんてことをしてしまったんだ)
図面を写し取る筆が震える。
横で墨をするお艶の、愛おしそうな視線が痛い。
最初は利用するだけのつもりだった。
用が済めば捨てる女だと、自分に言い聞かせていた。
だが、彼女の献身と、自分を信じてくれている純粋さ。
それらに触れるうち、金右衛門の心には、いつしかお艶へ、本当の愛が芽生えていたのだ。
器量など関係ない。
これほどまでに、美しい心を持った女性は他にいない。
図面を写し終え、金右衛門はお艶を抱きしめた。
もう芝居などではない、金右衛門の本心であった。

「お艶……ありがとう。本当にありがとう」
「金右衛門様、どうしたの、泣いているの」
「……いや、嬉しいんだ。お前のおかげで……」
「おまえのおかげで夢が叶う」そう言いたかったが、最後は言葉にならなかった
夢というのはお艶との結婚ではない。
主君の仇討ちだ。
そのはずだったのに。
今はお艶との別れに、涙している自分がいた。
この温もりを、決して忘れぬよう、その夜、金右衛門はお艶を抱いた。
討ち入り
そして、運命の十二月十四日。
金右衛門は、お艶の父親に挨拶に行くから、この日は家にいてくれと頼んでいた。
それは彼女を危険に晒させないためか、あるいは自分が人を斬る姿を見せたくなかったからか。
「お艶、俺はそなたには嘘ばかりついていた。許してくれ」
雪の降りしきる吉良邸に、赤穂浪士たちがなだれ込んだ。

その中に、鬼神のごとく十文字槍を振るう、若武者がいた。
岡野金右衛門である。
彼は誰よりも勇敢に戦った。
それは、お艶への贖罪であり、彼女の愛に応えるための戦いだった。
彼女がくれた図面のおかげで、屋敷の中を、同志たちは迷わず進むことができた。
(死ぬわけにはいかぬ。本懐を遂げるまでは!)
戦いは終わった。
この勝利は、お艶と共に掴んだものだった。
別れ

吉良上野介の首を挙げ、泉岳寺へと引き揚げる列の中。
沿道には、ひと目、赤穂浪士たちを見ようと、多くの人々が詰めかけていた。
その人垣の中に、お艶の姿があった。

ひとり涙を流しながら、金右衛門を探していた。
彼女は最初から知っていたのだ。
愛する人が、赤穂の義士であったことを。
そして、もう二度と戻らないことも。
「金右衛門様……」
お艶は金右衛門を見つけ、思わず声を出した。
その声に、金右衛門は一瞬振り返ったが、歩みを止めず、心の中で呟いた。

『お艶、すまない。俺は図面欲しさに嘘をついていた。許してくれ』
『だが、途中からは本気だった。お前のことを、本当に心から愛していた』
そして、一度だけ彼女の方を向き、微かに微笑んだ。
二人の目が合ったのは、ほんの一瞬。
しかし、その一瞬で、二人の心は通じ合った。
言葉はなくとも、お艶には、金右衛門の声が聞こえた。
「来世では、必ず……本当の夫婦になろう」
岡野金右衛門、享年二十四。
その短い生涯の中で、ただ一つ咲かせた恋の花。
だがその花は散ることなく、純愛の物語として、いまも語り継がれることとなったのである。