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大石東下り

日野家用人、垣見五郎兵衛

時は元禄十五年、秋も深まり、冬の足音が聞こえ始めた頃である。

東海道は神奈川の宿場町。

冷たい木枯らしが吹き荒れる中、一つの旅の一行が宿に到着した。

その一行の主は、立派で威儀を正した、堂々たる武士。

宿帳には、日野大納言家家臣、垣見五郎兵衛と記された。

だがこの男こそ、江戸へと下る赤穂浪士の頭領、大石内蔵助良雄であった。

幕府の隠密の目を欺くため、大石は垣見五郎兵衛の名を騙り、偽の通行手形で関所を越えてきたのである。

宿の主人が平伏して出迎える。

「垣見様、ようこそのお着きでございます。離れのお部屋をご用意しております」

大石は安堵の息をついた。ここまで来れば、江戸は目と鼻の先。

しかし運命とは、時に残酷な悪戯を仕掛けるものである。

大石一行が荷を解き、一息つこうとしたその時であった。

宿の玄関先がにわかに騒がしくなる。

「おい!主はおらぬか!日野家の家臣、垣見五郎兵衛が到着したぞ!」

廊下でそれを聞いた大石の顔色が、さっと青ざめた。

なんという不運。

なんという巡り合わせか。

本物の垣見五郎兵衛が、同じ日、同じ時、同じ宿に到着してしまったのである。

宿の中は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

「垣見五郎兵衛様が二人?」

「どちらかが偽物に違いない!」

本物の垣見五郎兵衛は、実直で知られる、剛直な武士であった。

自らの名を騙る不届きモノがいると聞き、烈火のごとく怒り狂うかと思われた。

家来たちは色めき立つ。

「垣見様、直ちに役人を呼び、その偽物を突き出しましょう!」

「これは日野家の名誉に関わる大罪です!」

しかし、垣見は片手を挙げてそれを制した。

「待て。騒ぎ立てては宿はもちろん、他の客の迷惑となる。

まずは私がその男に会おう。それからでもおそくない」

通された部屋で、二人の垣見五郎兵衛が対峙した。

本物の垣見は、眼光鋭く、大石を見据えた。

対する大石も内心の動揺を微塵も見せず、静かに座している。

だがその背中には冷や汗が流れていたはずである。

「其の方、日野家の垣見五郎兵衛と申したな」

本物の垣見が低い声で問う。

「左様。日野大納言様の命を受け、江戸へ下る最中でござる」

大石もまた、毅然と答える。

ここで引くわけにはいかない。

引けば、ここまでやってきたことが、すべて水泡に帰すのだ。

場の空気はますます張り詰めた。

そして垣見は静かに、しかし有無を言わせぬ重みを持って言った。

「本物であるならば、日野家発行の通行手形を持っているはず。それを見せてもらおうか」

絶体絶命である。

大石の懐には、書状を模した白紙の紙しかなかった。

「どうなされた。手形を持っておらぬというのか」

垣見が厳しく問い詰める

大石たちは、時には賄賂を使い、時には横道を潜り抜ける、いわゆる関所破りでここまでやって来た。

だがそれも、もはやここまで。

大石は震える手で、懐から白紙の書状を取り出した。

「……ご覧くだされ」

大石が差し出した白紙の手形を、垣見が手に取る。

「これは、白紙ではないか」

声を荒げようとした、その時であった。

垣見の視線がふと、部屋の隅に置かれた、大きな荷物箱に止まった。

そこには、布に包まれていたが、わずかに覗く家紋があった。

違い鷹の葉の紋。

それは紛れもなく、取り潰された赤穂藩、浅野家の家紋であった。

(あれはたしか浅野家の紋。そしてこの男の、ただならぬ風格……もしや)

垣見の脳裏に、江戸で噂の赤穂浪士のことがよぎった。

主君の無念を晴らすため、苦難を乗り越え、江戸へと向かう忠義の侍たち。

目の前の男の、死を覚悟した悲壮なまでの眼差し。

もしやこの男こそが、あの、大石内蔵助!?

垣見は全てを察した。

大石をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。

部屋に沈黙が流れる。

大石は、いつ「この偽物め!」という怒声が飛んでくるかと、身を硬くした。

しかし、垣見の口から出た言葉は、予想もしないものであった。

「相違ない。これぞまことの、日野家の通行手形

そしてあなたこそが本物の垣見五郎兵衛」

隣の部屋に控えていた、垣見の家来たちが驚きの声を上げた。

「何をおっしゃいますか!手形なら、垣見様がお持ちの、これこそが本物……」

「黙れ!」

垣見は一喝した。

「よく見ろ!わしの持っているこの手形……これこそが偽物であったわ!」

垣見は懐から、正真正銘の通行手形を取り出すと、なんとそれを、大石の前に差し出した。

「貴殿のその手形こそが本物。……して、私のこの手形は、もはや不要の紙屑。貴殿にお預けいたそう。

煮るなり焼くなり、あるいは……道中、何かの折に使うなり、好きになさるがよい」

それは、武士としての、魂の譲渡であった。

本物の手形を大石に与え、自らは偽物を名乗って退く。

赤穂浪士たちの志に、心を打たれた垣見五郎兵衛の、まさに武士の情けであった。

「わかっていただければ結構。我こそが、正真正銘の、垣見五郎兵衛でござる」

そう言いながら、大石の目からは、止めどなく涙が溢れ落ちた

そして大石は

「……かたじけのうござりまする」

垣見にだけ聞こえるよう、小さな声でつぶやいた。

垣見はただ深く頷くと、家来たちに命じた。

「さあ我らは引き上げるぞ。宿を変える。

ここは本物の垣見五郎兵衛様がお泊りになる宿だ。

我ら偽物が居座っては失礼にあたる」

唖然とする家来たちを叱咤し、垣見はその宿から立ち去った。

寒風吹きすさぶ神奈川の宿。

しかし大石内蔵助の心には、生涯消えることのない、温かい火が灯ったのであった。

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