
高田馬場の決闘
決闘前夜

元禄七年、二月十一日
江戸の空には薄雲が漂い、まだ冬の冷気が町を包んでいた。
その日の江戸の町には、不穏な噂が広がっていた。
牛込高田馬場で、果し合いが行われるというのである。
果し合いの当事者は、中山安兵衛の叔父、菅野六郎左衛門。
相手はかねてから、遺恨のあった、村上庄左衛門より、果たし状を突き付けられたのであった

その決闘の前夜。
菅野は瞑想に耽っていた。
明日の果たし合い。
正々堂々の勝負なら、決して負けわせぬ。
だがおそらくそうではない。
相手が一人とは限らず、またそこにはどんな罠があるかも知れぬ。
そんなことは百も承知であったが、武士として退くわけにはいかなかった。
菅野は筆を執り、一通の手紙をしたためた。
その宛先は義理の甥、中山安兵衛。後の堀部安兵衛である。

「安兵衛殿。余は明日、村上との果し合いに臨むこととなった。争いを好まずとも、武士の意地がこれを許さぬ。
もし余が討たれることあらば、妻子のこと、どうかよろしく頼む」
それはもはや、死を覚悟した者の遺書であった。
決闘当日、手紙を受け取った安兵衛は、刀を取り、八丁堀の長屋を飛び出した。
「ワレがやるべきことは、叔父上の妻子を託されることではない。生きて帰らせることだ。助太刀せずして、どうして義理の甥といえよう」
八丁堀から高田馬場までは、およそ三里
現代で言えば12キロ、東京駅から新宿ほどの道のりである。

安兵衛は走った。
一刻も早く、高田馬場に着くよう、全力で走った
高田馬場のすぐ手前、牛込馬場下に差しかかると、一軒の酒屋が目に入った。
酒好きで、仲間たちからは、飲兵衛安と呼ばれている安兵衛。
ふらりとその暖簾をくぐった。

「桝ザケをくれ」
出された酒を一気に飲み干す。
己を奮い立たせるための、気付の一杯である。
そして飲み干すと同時に、安兵衛は店を飛び出し、再び馬場へと駆けていった。
高田馬場

高田馬場に着くと、大勢の見物人が、決闘場を取り囲んでいた
中央で刀を振るっていたのは、叔父の菅野六郎左衛門であった。
だが既に数カ所を斬られ、その衣服は血に染まっていた。
その周囲を取り巻くは、村上庄左衛門とその仲間たち。
槍術師範・中津川ゆうけんを筆頭に、実に10人以上の手練れが菅野を囲んでいた。
果し合いとは名ばかり、これは初めから罠であった。
安兵衛の眼に炎が宿る。

「多勢に無勢、卑怯なり!義によって助太刀いたす!」
その声は決闘場に響き渡った。
敵の全員が、一瞬動きを止める。
安兵衛は躊躇なく、10人以上はいたであろう、その中に飛び込んだ。

最初に斬りつけてきた男の太刀を弾き、その胸を鋭く突く。
血しぶきが上がり、男が地に倒れる。
剣筋には一切の迷いがなく、ただ義の一念が剣を導いていた。
続いて二人目、三人目と斬り伏せる。
あっという間に数人を倒された村上たちは、動揺を隠せなかった。
だがここで、安兵衛の襷(たすき)が切られてしまう。
着物の袖がはだけ、思うように刀が振るえなくなった。
絶体絶命である。

その時であった。
見物人だった一人の女性が、自分の扱き帯を安兵衛に手渡した。
「お侍様、これを襷にお使いください」
「かたじけない」

そのあとの、安兵衛の動きは、まるで鬼神のごとくであった。
安兵衛が斬ったその数は、実に18人と言われている。
そして敵は退き、決闘場では、仁王立ちする安兵衛の姿があった。
安兵衛は大きく息を吐き、血に濡れた刀を鞘に納めた。
決闘には勝利した。
しかしすでにこの時、叔父のスガノ六郎左衛門は息絶えていた。

江戸で噂の安兵衛

この高田馬場の決闘は、江戸じゅうの噂となった。
「中山安兵衛、高田馬場にて助太刀し、見事多勢を斬り倒す!」
安兵衛の名は、一夜にして江戸じゅうに知れ渡ることとなった。
浪人だった安兵衛に、多くの藩から士官の話が舞い込んだ。
しかしどんな高禄の好条件にも、安兵衛が首を縦に振ることはなかった。
だが、赤穂浅野家の家臣・堀部弥平だけは諦めなかった。

弥平は安兵衛を、婿養子に迎えたいと申し入れた。
「中山の姓を、自分で途絶えさせるわけにはいかないのです」
そう言って断る安兵衛。
「では堀部を名乗らず、中山のままでかまわぬ、とまで弥平は言った。
それでも首を縦に振らない安兵衛。
「我が娘、キチでは不足と申されるか」
そして弥平の娘と会って、安兵衛は仰天した。

それはあの高田馬場で、自分の赤いシゴキ帯を、襷にとくれた女子(おなご)であった。
赤い糸ならぬ、運命の赤い襷。
驚く安兵衛を見て、笑いながらキチは言った。
「あの帯は結納の印、それを受け取られた以上、縁談は承知したことになりまする」
そうまで言われ、これも何かの縁と、安兵衛も笑いながら、ようやく首を縦に振った。
安兵衛はキチと夫婦になり、堀部の養子に入ることを了承した。
「養子となる以上、今日から堀部を名乗り、父上と呼ばせていただきます」
堀部安兵衛の誕生であった。

そしてそれから八年後――。
堀部安兵衛は、赤穂浪士の一人として、吉良邸討ち入りに参加するのである。