討ち入り前夜、大石内蔵助が打った大芝居と瑤泉院の涙
亡き殿の仏前に報告を

元禄十五年十二月十四日。
雪は、夕暮れと共にその勢いを増していた。
麻布、南部坂。
瑤泉院の隠棲する屋敷の門を、一人の男が叩く。
大石内蔵助良雄である。
今宵、寅の上刻、吉良邸へ討ち入る!
だがその前に、亡き主君・浅野内匠頭の仏前に最後の焼香をし、瑤泉院へ暇乞いをするため、危険を承知で訪れたのだ。
大石を出迎えたのは、紅梅という名の侍女であった。

「そなたとは初めてお目にかかる。いつから瑤泉院様にお仕えしておられるのだ?」
「今年の春からでございます」
大石が奥の部屋に通されると、そこにはやつれた顔の瑤泉院がいた。
無理も無い。
浅野内匠頭の切腹から、1年9ヶ月もの間、その心労たるや、想像を絶するものであったであろう

「内蔵助、待ちわびておったぞ」
それでも瑤泉院は、やつれた頬を紅潮させ、大石を迎えた。
ついに夫の無念を晴らす日が来たと、その瞳は希望に輝いていた。
「で、いつうちいるのじゃ?」
「実は今宵……」
そう言いかけたとき、大石は異様な気配を感じ取った。

次の間へ続く襖が、わずかに開いている。
そこから、鋭い視線が自分に向けられているのを肌で感じたのだ。
大石を出迎えた侍女・紅梅。
表向きは忠実な侍女だが、その正体は、吉良上野介が、赤穂の動向を探るために送り込んだ間者、つまりスパイであった。
「(先ほどの女。やはり……)」
もし今ここで「討ち入り」を口にすれば、女を通じて即座に吉良へ伝わる。
そうなれば、一年九ヶ月の苦労は全て水の泡である。
大石は、瑤泉院の期待を裏切るかのように、わざと部屋の外にも聞こえるような大きな声で言った。

「瑤泉院様。某(それがし)、このたび西国のとある藩への仕官が叶いました。
つきましては本日はお暇乞いに参りました」
空気が凍りついた。
瑤泉院の表情から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「仕官だと?そちは亡き殿の御恩を忘れ、己のために、二君に仕えると言うのか!」
「武士も喰わねば生きてゆけませぬ。
それに京での遊興で、金も使い果たしましてな」
大石は薄ら笑いを浮かべ、わざと卑しい言葉を選んだ。
襖の向こうで、間者、紅梅の気配が微かに動く。
大石の堕落した姿に、さぞかし安心したのだろう。
そして瑤泉院の激昂が、屋敷を揺るがす。

「よくもそのようなことをぬけぬけと!二度とその顔はみとうない!」
大石は、胸を引き裂かれる思いで、その場を立ち上がった。
廊下に出ると、待ち構えていた紅梅が、冷ややかな目で一礼した。
その口元には、大石を軽蔑するような、薄ら笑いが浮かんでいた。
大石は、見送りの戸田の局に、一巻の巻物を託した。

「戸田殿。これは赤穂藩の金銀の出納帳にございます。あとで仏前にお供えくだされ」
「金銀の、帳面を……ですか」
戸田の局は、大石の変節が信じられぬ様子で、戸惑いの表情を浮かべた。
「それから、瑤泉院様の身の周り、特に今宵、局殿がご注意くだされ」
大石は門を出る間際、一度だけ振り返り、仏壇のある方角に向かって、深々と頭を下げた。
その目には、熱いものが溢れていた。
「(お許しくだされ、御台様……。この大石、武士の意地にかけて、必ずや今宵、吉良の首をあげてご覧に入れまする)」
大石は、心の中でそうつぶやき、屋敷を後にした。
大石の真意

その夜。
紅梅は、大石が戸田の局に託した、巻物を盗み見た。
それは出納帳などではなかった。
今宵、吉良邸に討ち入る義士たちの連判状、血判であった。
「やはり」
紅梅はそれを盗み出し、吉良邸に走ろうとしたその時であった。
戸田の局と鉢合わせになったのである。
「そなた、何をしている」
戸田の局はただの世話係ではない。
薙刀を初め、武芸にも通じる、瑤泉院のボディーガードでもあった。
取り押さえられた紅梅は、自ら舌を噛み切って自害した。
この女は一体何を盗み出そうとしたのか?
巻物の中を見て、戸田の局は驚愕した。
「瑤泉院様。大石様がこれを……!」
戸田の局が差し出した「金銀請払帳」
だがそれは金の計算書きなどではなかった。

大石内蔵助を筆頭に、続く四十六名の血判。
決死の覚悟が綴られた、連判状であった。
それを見て、全てを察した瑤泉院は、その場に泣き崩れた。
あの卑しい態度も、冷たい言葉も、すべては間者・スパイの目を欺き、討ち入りを成功させるための芝居だったのだと。
「許しておくれ……! 私は何も知らず、そちを罵ってしまった。
戸田の局も、声を上げて泣いた。
あの男は、誰よりも忠義深く、そして誰よりも孤独な戦いをしていたのだ。
屋敷の外、雪はさらに激しさを増している。
この雪が、吉良の目をくらませ、大石たちの足音を消してくれるだろう。
瑤泉院は涙に濡れた顔を上げ、東の空、本所の方角を見つめ、震える手で討ち入り成功への祈りを捧げた。
